統一教会のメシア観

なぜ、文鮮明師はメシア(再臨主)なのか



渡辺勝義



 



 

はじめに


第1回世界文化体育大典の合同晩餐会が、1992年8月24日夜、ソウル市内のリトルエンジェルス芸術学校で開かれた。この合同晩餐会には、世界各国から宗教指導者、科学者、言論人、政治家など約千人が参席した。同大典の主催者である文鮮明師は、これらの人々を前にして、同師が人類の「真の父母」であり、「救世主」「再臨主」「メシア」であると宣言した。二千年前においては、イエスですらもこれほど大胆に明言しなかったが、文師はそれをなした。

 

 

 

 

 

ところで、イエスがメシア(キリスト)であるか否かという問題は、イエスのメシア宣言を受け止める人々の信仰の問題であり、イエスとのかかわりにおけるその人個人の実存の問題であった。同様に、文師が再臨主か否かの問題もまた、これを受け止める人々の実存の問題であり、信仰の問題であることは言うまでもない。しかし中には、どうして文師がキリスト教でいう「メシア(再臨主)」なのかと異議をはさむ方々もいるに違いない。したがってこの問題は、単に受け止める人々の信仰の問題、実存の問題というだけで片付けるわけにもいかないであろう。それゆえ統一教会のメシア観を、ユダヤ、キリスト教のメシア観と比較しながら論述することは、極めて重要なことであると言える。



 

本論文は、ユダヤ、キリスト教のメシア思想の発展過程から見て、統一教会のメシア観がいかに正統的、伝統的なものであるか、さらにそれにとどまらず発展的内容を有するものであるかを論述しようとするものである。これを通して、多くの読者が統一教会のメシア観について正しい理解を深めていただければ筆者の幸いとすることろである。



 

1994年1月1日

渡辺勝義



 



 



第1章 ユダヤ教のメシア観



 

(1)メシアの意義



 

まず第一に、ユダヤ教のメシアが何であるかという問題を理解せずして、文鮮明師のメシヤ性を論ずることはできない。そこで、メシアというヘブル語の語源の意味を理解することから始めていくことにする。



 

メシアとは本来、「油を注がれた者」すなわち受膏者」を意味し、それをギリシャ語訳したのが、クリストス(キリスト)である。頭から油を注ぐ儀式は名誉ある任職を意味し、おもに「王」の任職の時行われた儀式(サムエル上24:6−10etc.)であるが、「祭司」の場合もあり(レビ4:3−5)、時には「預言者」の場合もあった(列王上19:16、イザヤ61:1)。さらに預言者と見なされた族長(詩105:15)や異国の王(イザヤ45:1)までもメシアと呼んでいる。旧約聖書の中で見られるこの儀式は39回登場するが、そのうち29回はイスラエルまたはユダヤの王を指しており、特にダビデとその子孫の王に集中している。

 

油を注がれた最初の王はサウルであったが、預言者サムエルを通して与えられた神の命令に逆らったので(サムエル上15:1−23)間もなく退けられ、ダビデが王朝の祖となった。しかし、その子ソロモンの失敗により王国は南ユダと北イスラエルに分裂した。だが、南王国のユダはダビデを理想化してその王族の永続を願い、危機に当たっては彼の再来を待望するようになったのである。



 

このような「王としてのメシア」は、イザヤ書のメシア待望の預言として克明に叙述され(イザヤ9:1−7、11:1−10)、同じようなメシア待望がミカ書(5:2−5)にも、エレミヤ書(23:5−6)にも見られ、ハガイ書(2:20−23)、ゼカリヤ書(4:6−14)を経て、ずっと後の第二ゼカリヤ書(9:9−10)にまで至っている。したがって、このようなメシア像が旧約聖書を貫く本来のメシア像であると言える。



 



 

(2)メシアの使命



 

では次に、メシアの使命は旧約時代の人々、すなわちイスラエル民族にとって何であったのであろうか。それは神を冒涜する人々をこの地上から一掃し、神の支配(神の国)をこの地上にもたらし、神の民であるイスラエルを敵から守り導くことであった。したがって、メシアは民族の政治的救済者であり、やがては万民の征服者となるべき存在だったのである。旧約におけるメシアの使命とは、第一に、王として、神の民すなわちイスラエル民族を神の敵より守り導き、第二にエルサレムに神殿を建設することであった。したがって、そこにはメシアが人類を罪から贖う「贖罪者」であるといったような、キリスト教的な観念は存在していなかったのである。



 



 

(3)メシア思想の発展過程



 

1 王としてのメシア



 

最も古いメシアについての言及と考えられるのは、創世記49章8−12節である。そこに記されている預言によれば、「シロ」と呼ばれる人物が現われ、諸民族は彼に従い、彼はダビデ王時代をしのぐ繁栄と平和をもたらすというのである。



 

「ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。

あなたの手は敵の首を押さえ

父の子たちはあなたを伏し拝む。

ユダは獅子の子。

わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。

彼は雄獅子のようにうずくまり

雌獅子のように身を伏せる。

誰がこれを起こすことができようか。

王しゃくはユダから離れず

統治の杖は足の間から離れない。

ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(創世記9:8−10)



 

しかし、「シロ」という言葉の語義が判明できないので、この古代のメシアの約束は明確なものとは言えない。



 

次に、メシア言及と考えられるものは、民数紀24章15−19節に出てくる。定説では、これはダビデ時代に書かれたと言われている。ここにはバラムの預言が記録されており、同17節には戦争に強い一人の王の出現が述べられている。



 

「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。

彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。

ひとつの星がヤコブから進み出る。

ひとつのしゃくがイスラエルから立ち上がり

モアブのこめかみを打ち砕き

シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」(民数紀24:17)



 

けれども、この託宣は普通の預言ではなく、「事後預言」の一種であるとみなされている。すなわち、ダビデをヤコブから出た星であり、イスラエルから起こった杖と見なして、あたかも数百年前に語られたバラムの預言が、ダビデにおいて成就したかのように書かれたものであるというのである。ここで描写されているメシア人物の任務は軍事的なものに限られているので、旧約本来のメシア像まで至っていないが、ある種のメシア預言の原型と見なすことはできるとみられている。



 

ナタンの預言(サムエル下7章)、ソロモン神殿奉献の詩(列王上8章)、あるいは王の詩篇のあるもの(詩篇89編)などは、「現在の王」または王朝にメシアを見たものであり、これに対して預言書であるイザヤ書(イザヤ9:1−7、11:1−10)は、「未来の王」にメシアを期待したのであった。



 

すなわちイザヤの預言によれば、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と称えられる一人の男児の出生によって、奴隷化されたイスラエル民族が解放され、救われるという。その男児は王としての主権を確立し、彼によって公平と正義の時代が到来するのである。



 

「ひとりのみどりごが私たちの為に生まれた。

ひとりの男の子が私たちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は 驚くべき指導者、力ある神、

永遠の父、平和の君と唱えられる。

ダビデの王座とその王国に権威は増し

平和は絶えることがない。

王国は正義と恵みの業によって

今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:5−6)



 



 

そして、ダビデの家系から出る王としてのメシア像が、形成されていったのである。これが後のメシア思想形成の基礎となり、また旧約聖書に一貫して流れているメシア思想なのである。



 

しかし、例外もある。かつてペルシャのクロス王は、イスラエルの敵であるバビロニアを倒し、イスラエル民族が故郷に帰って神殿を再建するために持ち物を持たせ、金銭までも与えたのである。それゆえ、イザヤはクロス王を「メシア」であると宣言するのである。「主が油を注がれた人キュロスについて主はこういわれる。、、、」(イザヤ45:1)。これは、メシアがイスラエル以外の国から現われ得ることを示した重要なメッセージであると言えよう。



 

2 祭司としてのメシア(捕囚後のメシヤ像)



 

王国は滅亡し、捕囚の悲しい運命を経験した後、事態は著しく変わり、ダビデ的メシアへの待望は薄らいでいった。代わりに神殿の再建とユダヤ教団の確立に努力が向けられ、祭司が王に代わってその機能を行うようになった。捕囚からの帰還直後には大祭司ヨシュアと総督ぜルバベルが、共に「油を注がれたもの」として登場してくる(ゼカリア4:14)。これはそのころの過渡的な出来事ではあるが、重要なことは、神の祭司的権力の代理者と世俗的権力の代理者が共存しているということである。メルキゼデクは、そのような「祭司であり、また王である」者の原型として考えられていた人物だというのである(創世記14:18、詩篇110:4)



 

こうして帰還後は祭司が「油を注がれた者」として登場し(レビ4:3、5、10)、祭司長が国を支配するようになった。そして祭司王国の理念は、一時的ではあるが前二世紀に祭司マキテヤの子ユダ=マカベウスによって、独立の回復という形で実現されるに至ったのである(マカベア戦争)。



 

一方、後期ユダヤ教のメシア待望にとって極めて重要なのは、クムラン教団すなわちエッセネ派のメシア思想である。これは死海文書の発見によって知られるようになった。彼らのメシア思想によれば、終わりの日に、二人のメシア的人物の到来が待望されている。一人は「儀のメシア」と呼ばれる世俗の王、統治者であり、もう一人は「儀の教師」と呼ばれる祭司である。そして、終末的な大祭司は王的メシアよりも上位に立つという。



 

3 預言者としてのメシア



 

列王記上19章16節によれば、主がエリヤに「ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。また、アベルメホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」と言う。また、イザヤ61章1節によれば、「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた」というのである。さらに詩篇105編15節(歴代上16:20)では、イスラエルの族長を預言者と同格と見なし、油を注がれた者として扱っている。



 

このように旧約聖書の中には、預言者もまた「油を注がれた者」すなわち「メシア」であるとする思想が見られる。さらに死海写本によれば、「大祭司」「王」に加えて終わりの日には「かの預言者」が現われると記され、理想的なユダヤ国家には王、祭司、預言者が存在する(旧約聖書外典、第一マカベア書14:41参照)というのである。



 

4 黙示的メシア像



 

旧約時代の末期には、黙示文学の中に独特な超自然的メシヤ像が登場してくる。その典型的な例として挙げられるのは、ダニエル書に書かれている「人の子」としてのメシア像である。



 

「夜の幻をなお見ていると、

見よ人の子のような者が天の雲に乗り

日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み

権威、威光、王権を受けた。

諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

彼の支配はとこしえに続き

その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13−14)



 

「人の子」とは天使的な先在者で、世の終わりに審判者として神のそばに現われる存在であって、ダビデの家系から地上に生まれてくるメシアとは全く相反するメシア像であると言える。このようなメシア像は黙示的終末観に基づいており、週末における救済は、神からの一方的な恵みと超越的力によってもたらされると考えるところから出てきている。これに対し、伝統的、預言者的終末観では、人間が罪を悔い改めて神との契約を遵守すれば、神の審判を避けることができると考えられている。



 

さらに、黙示的終末観によれば、世の終わりの神の審判が超自然的に全世界に及び、その後、神の支配が全宇宙に満ち、新天新地のユートピアが到来するというのである。特に、黙示文学的な二元論、すなわち、「この世(此岸)とあの世(彼岸)」「この時代と来るべき時代」とを対照的に扱う思考の仕方は、旧約末期のメシア観に深い影響を与えていたと言える。



 

こうしてメシア思想も、王、祭司、預言者へと発展し、黙示文学に見られる超自然的なメシア像「人の子」まで至るのである。そしてイエスは「人の子」という表現を用いて、御自分のメシア性を独特なものとして意識し、提示されたのである。(マルコ:38,13:26,14:62)。



 



 



 

第二章 キリスト教のメシア観



 

(1)民衆の期待したメシア観



 

新約聖書においては、ヨハネ福音書に二回だけ「メシア」という語が使用されている。それは、「彼は公言して隠さずわたしはメシアではないと言い表した(1:20)。女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」(4:25)の二か所である。ほかはそのギリシャ語訳である「キリスト」が用いられている。



 

1 王としてのメシア



 

共観福音書によれば、当時の民衆の期待したメシアとは、政治的救済者としてのメシアあり、ユダヤ人の王であることがわかる(マルコ10:35−48、11:10、15:2、マタイ1:1、12:23、ルカ1:69、19:38)。例えば、マルコ福音書11章10節では、「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」とあり、同15章2節では、「ピラトがイエスに、お前がユダヤ人の王なのかと尋問すると、イエスは、それは、あなたが言っていることです。と答えられた」と書かれている。マタイ福音書1章1節では、「アブラハムの子ダビデの子、イエスキリストの系図」とあり、同じく12章23節では「群集は皆驚いてこの人はダビデの子ではないだろうか。と言った」と記されている。



 

さらにルカに福音書1章69節では、洗礼者ヨハネの誕生の際に父ザカリヤが聖霊に満たされて、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と言い、同じくルカ福音書19章38節では、イエスの弟子たちがこぞって「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。、、、」と言っている。



 

2 祭司としてのメシア



 

メシア的祭司長の理念は福音書の中には見受けられないが、かつてパウロの著作とも考えられていた「ヘブライ人への手紙」の中には登場してくる。



 

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(ヘブライ4:14)



 

3 預言者としてのメシア



 

さらにヨハネ福音書には、メシアは「預言者」として期待されていたことがうかがわれる。



 

ヨハネ福音書6章14節には、「人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った」と記述されている。



 

4 神の子としてのメシア



 

またメシアに対して、「神の子」あるいは「超人的救済者」としての期待が、共観福音書の中には見られる(マルコ3:11、15:39、マタイ14:33、16:16、27:40)。例えば、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏してあなたは神の子だと叫んだ」(マルコ3:11)。またイエスが湖の上を歩いたのを見て、「舟の中にいた人たちは、本当に、あなたは神の子ですと言ってイエスを拝んだ」(マタイ14:33)などの聖句に表れている。



 



 

(2) イエスのメシア概念



 

イエスは、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白したとき最も喜んでいるところから、イエスのメシア意識は明白である。



 

では、イエスのメシア概念とはいかなるものであろうか。マタイ福音書21章15、16節に、イエスが「ダビデの子」と呼ばれた時、あえてそれを否定していない記事が書かれているが、一方マルコ福音書12章37節では、メシアがダビデの子であることを否定し、それ以上の者であることが主張されている。「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。



 

さらに、イエスは、メシアは「罪を赦す権威がある」ことを主張し、「安息日の主」であるとも言われる(マルコ2:10、28、11:15−18、33)。またイエスは、自分自身が黙示文学的審判者であることについて言及し(マルコ8:38、13:26)、さらに苦難を受ける者であることも語られる。



 

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:11)



 

そして、イエスはイザヤ書53章12節を引用して、ルカ福音書22章37節で「その人は犯罪人の一人に数えられたと書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と言い、第二イザヤにおける苦難の僕の姿と関連づけて、苦難のメシア観念を展開する。すなわち、イエスキリストは全人類の罪を背負い、その罪の贖いとして自分の生命を与えたというのである。「人の子が、仕えられる為ではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マタイ20:28)



 

この苦難のメシア思想には、キリスト教独自のメシア観を形成することになる。なぜなら、ユダヤ教のメシア思想には、メシアが万民の罪の贖いの為に死ぬという概念がないからである。メシアがたとえ苦難や死に触れることがあっても、苦しんで死ぬということは決してありえない。また、「苦しみ」といっても、それは王国の確立までもしばしの過程にすぎない。すなわちメシヤは民族の救済者であり、政治的な王なのである。



 

さらに、このイエスの「受難メシア」の思想はメシアの受難のみで終わってしまうのではなく、復活に対する希望的信仰へとつながっていく。そして、イエスの復活の出来事が歴史的な事実であるとするゆえに、キリスト教徒はイエスがメシアであると確信するのである。キリストの復活は、原始教会の最も基本的な宣教の内容を形成しており、使徒達は言えるが復活したことこそが彼らの証言となるべきであると考えている(使徒1:22、2:22−26、ペテロI1:3)。



 

また、イエスは「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」(ヨハネ8:58)と語っており、キリストの先在性についても言及している。



 

それゆえ、この「受難と復活のメシア思想」の上に、イエスの先在性というロゴスとしてのキリスト概念(ヨハネ1:2−3)が加えられ、初代のキリスト教会の「メシア概念」が形成されていったのである。



 



 

(3)キリスト教徒のメシア概念



 

イエスをメシア(キリスト)と信じ告白するキリスト教徒は、四世紀と五世紀の教会会議において信条(Symbolum)を制定するようになった。すなわち、325年に開かれたニカイア総会議においては、イエスキリストは「父なる神と同質(Homoousios)にて、創造されずに生まれた神である」(三位一体)と宣言され、451年のカルケドン総会議では、「真に神であって真に人である」(キリスト論)と宣言された。しかも、その神人両性は「混合せず分離せず」というのである。そして、その後のキリスト教徒たちは、イエスの生涯と教えを、聖書のみに基ずいて理解するのではなく、それらの信条に照らして解釈したのである。



 

そのような観点から、新約聖書に書かれている飯屋の概念を総括するならば、メシアであるイエスは「預言者」「苦難の僕」「大祭司」「キリスト」「人の子」「主」「救世主」「ロゴス」「神の子」そして「神」といった、10個の称号を与えられた存在であると言える。



 

カトリック教会はもとより、プロテスタント教会も、これらの信条に沿ってその教義を構築してきたのである。



 

宗教改革後の正統的キリスト教派の信仰告白書によると、プロテスタントの基本教義は、第一に「神のみ言である聖書は、絶対無謬である」ということである。



 

第二は「三位一体論を信ずる」こと。すなわち、神は一つの実体でありながら、父、子、聖霊の三位に分離した位格(Persona:独立した人格)を持つ存在であり、その子なる神がイエスキリストとして受肉したことである。そして、この受肉の教義から、イエスキリストの神性に対する信仰が出てきた。イエスが神性を有するがゆえに、彼は聖霊によって処女から生まれなければならなかったのである。



 

また、イエスはその血によって人類を救済する為に、十字架上で死なれ、三日目に肉体(栄化体)で復活され、その体をもって昇天され、再び天から下って来られ、この世界を裁き、地上でメシア、王として君臨されるというのである。



 

第三は、全人類はアダムの堕落によって完全に腐敗しているので、永遠の地獄の刑罰を免れることはできない。しかし、イエスの贖罪の死によって、誰でも彼を信じて洗礼を受ければ罪を除くことができる。しかもそれは行いによるのではなくただ「信仰のみ」によって義とされるのであり、その結果イエスを信ずる者は、終末の到来(再臨)において永遠の生命をつかむことができるというのである。



 

(4)現代神学および聖書学から見たイエス像



 

しかし、これらの正統的キリスト教の教義は、19世紀の学者達が聖書を歴史的、学問的に検討し始めるや否や、もやや客観的な意味をもたなくなったのである。たとえば、「マリヤの処女性」という観念は、イザヤ書7章14節についての「誤訳」に関係していることが明らかになった。



 

この聖句に関するヘブライ語原文は「一人の若い女(a young woman/アルマー)」が男の子を生む。その名を彼女はインマヌエルと呼ぶであろう」となっているのに、ギリシャ語七十人訳では、「処女(a virgin/パルセノス)が男の子を生む。その子を人々はインマヌエルと呼ぶであろう」と書かれているのである。



 

マタイは、イエスこそまさに、聖書に預言されていたメシアであると信じていたので、イエスは処女から生まれたに違いない、と結論したというのである。事実、現代神学者の一人であるエミールプルンナーは、イエスが処女から生まれたことを否定している。処女降誕という思想は、本来のキリスト教が宣布したメッセージの中にはなかったというのである。



 

また、歴史批評学が発展するにつれ、福音書はイエスの生涯に関する目撃者の報告でなはいことが明らかになってきた。すなわち、福音書記者たちは、イエスの死後40年ないし60年たった後のキリスト教社会に流布していた、しょきのイエスに関する「言い伝え」を編纂した人たちだったのである。



 

「原典(資料)批判」(Souce Criticism)、すなわち、聖書各巻をなしている歴史的資料を見いだす学問によれば、基元68年頃に記録された一番短いマルコ福音書が最初の福音書であり、イエスの生涯についての最も信頼できる資料であるという。マタイとルカは、このマルコ福音書を重要な資料として書いていることが明らかになった。さらにマルコ資料の他に、マタイとルカが使用したもう1つの共通の資料があったということが、ほぼ確かな事実であることが分かり、その資料を学界ではQQuail=諸記録)と呼んでいる。



 

また、「様式批評」(Form Criticism)、すなわち口伝として伝えられてきた断片資料(ぺリコーぺ)が、どのように福音書の中に含まれ、その基礎になったのかを研究する学問によれば、口伝はいくつかの様式(Form)で存在していたという。比喩の言葉を集めたもの、病気を治した物語を集めたもの、そして断片的なイエスのみ言を集めたものなどである。



 

このような学問の研究の結果、様式批評学でよく知られているルドルフ、プルトマンは、福音書はイエスを史実的に描写したものではなく、初代教会の信徒たちによって「イエスはキリストである」と宣言、宣教がされた、「ケリュグマ」(宣べ伝える)の書」であると結論したのである。



 

さらに「編集史批評」(Redaction Criticism)、すなわち各福音書の編集者が、何の目的で福音書を書いたかを研究する学問によれば、マタイ福音書はパレスチナにいたユダヤ人クリスチャンの為に、マルコ福音書はローマにいたクリスチャンの為に書かれたものであり(注、がリラヤ湖を中心とした諸地方に伝わる伝承を背景に編集されたとの説もある、田川説)、ルカ福音書は異邦人の為に、そして、ヨハネ福音書はギリシャのクリスチャンの為に書かれたものであることが主張されるようになった。



 

すなわち、四人の編集者達は、それぞれ自分の読者たちの環境を念頭に入れて福音書を書いたのであって、イエスに対する客観的な歴史を記録するつもりで書いたのではなかったというのである。



 

このように、今日聖書が絶対無謬であると主張する根拠は、もはやどこにも見当たらなくなったのである。現代の聖書学者によれば、福音の中で真にイエスが語ったと思われる聖句は、次のような「神の国」に関するほんの二、三の聖句にすぎないというのである。



 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あすこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)



 

さらにヨハネ福音書に関しては、かつてNHKの番組の中で「文明と信仰」という題名で、テレビに放映されたことがあるが、エジンバラ大学において、スコットランドの教会の二人の牧師(モートンとマックリー氏)がコンピューターを使って聖書の位言葉の統計的な分析を行ったところ、ヨハネの文章の構造や言葉の使い方などの特徴の分析結果が出てきたという。



 

それによれば、ヨハネ福音書には、イエスの言葉がそのまま記されていないというのである。たとえば、写本を作る段階で余計な言葉が付け加えられたり、他の文章からの挿入や著者の個人的考えまで付け加えられた形跡があるというのである。



 

したがって、イエスの言葉には、弁証のために長い説明や説教が付け加えられ、どこからどこまでがイエス自身の言葉なのか、どこが著者の言葉なのか区別ができないほどだというのである。それゆえ、この福音書は、すでによく知られているように共観福音書に比べて、イエス伝というよりは「信仰告白書」という色彩を強く帯びているのである。



 

結局のところ、現代の批評学的な聖書研究の結果、ニカイアやカルケドンの教会会議で制定された信条におけるイエス像、すなわち「神と同質」であるとか「真の神にして真の人」といったメシア像は、客観的には何ら歴史的根拠を持つものではなく、イエスを信ずる者による信仰告白に基づく「信仰の論理におけるメシア像」であることが明白になったと言えるのである。



 

つまり、キルケゴールが指摘するように、「受肉のキリスト」とは、理性によってのみ完全把握できる存在を不完全に表象したものではなく、いかなる種類の理性からも完全に分離したものであり、実存と理性とは必ずしも類似のカテゴリーではないと言えるのである。



 

このように、普通一般の人が十字架を背負っているイエスの姿を見ると、どう見ても理性では、この人物が人類の罪を贖罪している「神」とは見えないのであるが、キリスト教徒がこれを見て、その中に現われる神の啓示を受け入れたい気持ちに誘われる時、理性とは無関係の「信仰の飛躍」をもって、この人物を「救い主であり、神である」と告白するというのである。それゆえ、今日イエスがメシアかどうかという問題は、客観的論理において取り扱うべき問題ではなく、あくまでも信ずる者の「実存」の問題であり、信仰告白のもんだいであると言えるのである。



 



 



 

第3章 統一教会のメシア観



 

(1)メシア観の推移



 

第二バチカン公会議で活躍したカールラーナーが、同会議の為に書いた「世界の教会への飛躍」と題する論文によると、キリスト教の歴史的発展過程において、神学的に重要な3つの時期があるという。第一期はユダヤ教的キリスト教の時代であり、第二期はヘレニズムとヨーロッパ文化の教会時代で、パウロが割礼を廃止することによってキリスト教がユダヤ教的色彩から脱し、異邦人キリスト教へと発展して、西欧社会へ伝播していった時期である。しかし、このようなキリスト教の発展は、いまだ「西洋的キリスト教」の次元であり、「世界的キリスト教会」には至っていない。したがって、キリスト教が、「世界の教会」となるためには、第三期の「世界的キリスト教会」時代へと移行しなければならないというのである。



 

それでは、第一期のユダヤ教的キリスト教時代におけるメシア観とは、いかなるものであったのであろうか。ユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒にとって、「メシア」とは存在論的でもなく、機能的なものであった。メシアはその使命において特別な存在だったのあり、存在論的には、われわれ一般の人間と何ら異なった特別な存在ではなかったのである。すなわち、神は人間モーセを立てられ、ユダヤに解放をもたらすために油を注がれたのであった。したがって、ユダヤ教の神学には、メシアが神(ヤハウェ)の受肉した存在として到来するといった思想はないのである。メシアたる方は、あくまでもダビデ王の子孫か、大祭司か、または預言者であって、民族の救済者、解放者として登場してくる政治的な人物なのである。



 

もちろん、ダニエル書のような黙示文学においては、メシアは終末論的な「人の子」という「超自然的人物」であるという概念(メシア思想)もあったが、それでもそのようなメシア思想においても、神(ヤハウェ)自身と、その救済の為の代理人であるメシアとは明確な区別がなされていたのである。



 

しかし、ユダヤ人キリスト教徒たちの勢力が衰微化し、キリスト教が次第に異邦人世界に広まってきた時に、キリスト教はカールラーナーが言うような、第二期の異邦人の教会時代を迎えるのである。異邦人のキリスト教徒たちにとっては、メシアがダビデの子孫であるという必要はないのである。まして、ローマ支配からユダヤを解放しようとするメシア運動には関係したくなかったのである。その結果、異邦人キリスト教徒たちの諸教会においては、早くからイエスは「神の子」であると説明されるようになっていたというのである。



 

そして、ついにイエスは「神」にされてしまうのである。新約聖書にも、イエスを描写するのに「神」という語を用いている箇所が三箇所ある。(ヘブル@:8−9、ヨハネ1:1、10:28)



 

一世紀後半のローマ帝国の世界においては、例外的に傑出した人物を神性の故だとすることは、決して珍しいことではなかったという。事実、アウグストスのような皇帝は、「神のような救世主」とか、「主にして神」とか呼ばれたからである。それゆえ、異邦人のキリスト教会においてイエスを神格化することは、それほど問題ではなかったと言える。



 

(2)統一教会のメシア思想



 

統一教会のメシア思想は、伝統的ユダヤ、キリスト教のメシア思想に立脚している。しかし、そのメシアの概念には「メシアが神ご自身である」という概念は存在しない。

メシアはあくまでも「人」であって「神」ではないのである。メシアの存在論的価値は、神の創造目的を完成した人間(アダム)の創造本然の価値と同等と見るのである。



 

すなわち、統一教会のキリスト論によれば、創造目的を完成した人間(アダム)は、神的価値を有し、唯一無二の永遠の価値を有し、無形実体世界(霊界)と有形実体世界(地上界)を総合した天宙的価値を有する存在なのである。このような価値は、本来全ての人々に賦与されている価値なのであって、メシアとは存在論的には、われわれと何ら異なることのない真正の人間なのである。その意味において、統一教会のメシア概念はユダヤ教を通して受け継がれてきたそれと一致するのである。



 

また、現代神学の祖と呼ばれるシュライエルマッハーのキリスト論によれば、神が受肉して人間になったということは、人性が神性によって満たされることができるという意味であり、キリストは神自身ではなく、あくまでも人間の原型(archetype)なのだと解釈している。



 

すなわち、全ての人が神の子女となり得るという可能性(人間の創造目的)を完全に実現したのが真のアダムであるキリストだったのである。したがって、キリストは全く他の人間と異なった存在ではなく、程度(その機能ー使命)においてのみわれわれと差を持つ存在なのである。すなわち、われわれは瞬間的には、絶対的な神意識を表すという体験を持つことはできるが、キリストはその全生涯を通して、絶対的な神意識を中断することなく、完全な連続性をもって表すことができる方なのである。そして文鮮明師は、そのような方なのである。その意味において、文師はまさしくメシア(キリスト)なのである。



 

ところで、統一教会のメシア観がユダヤ教と同様に機能論的なものといっても、メシアがダビデの子孫であり、ユダヤ民族を敵から解放するという、特定の民族の政治的解放者であるという概念は存在していない。また一方では、統一教会のメシア観は、キリスト教と同様に万民の罪の贖罪者としての「苦難のメシア思想」を有している。そして、この苦難のメシアこそイエスであったと確信しているのである。それゆえ統一教会は、イエスをメシア(キリスト)として告白する。したがって、統一教会はその正式名称が「世界基督教統一神霊協会」と称えるごとくに、正真正銘のキリスト教会と言えるのである。



 

このイエスキリストは、文師が16才の時山の上で祈っていると、突然霊的に現われ、「私は二千年前に神のみ旨を生きて果そうとしたけれども、イスラエル民族の不信ゆえに果たすことができず、十字架得の道を行かねばならなかった」との旨を語られたのである。そして、イエスは完全に果たすことのできなかった神のみ旨成就の使命を、「あなたが果たしてほしい」というメッセージを告げられたのであった。文師はこのイエスとの霊的出会いの中で受けた使命ゆえに、「私は再臨のキリストである」と宣言するのである。そして、これを証明するものは、キルケゴールが言うように、受け止める人々の信仰によるものであり、実存にかかっていると言えるのである。



 

カナダのトロント大学の神学者、ハーバードリチャードソンが文師に、「あなたはメシアですか」と問うた時に、文師は「メシアとは、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨をなそうとする人のことを言う。私もメシアになろうとしているし、あなたもメシアにならなくてはならない」と答えたのである。



 

この答えの中に、文師のメシア理解が正確に現われている。これは、メシアとはある特定の神的存在である個人、すなわち、存在論的メシアのことではなく、人類を救済するという「使命」そのもの、つまり機能的メシアであることを示している。そしてこれこそ、旧約聖書の中に39回も登場してくる、神が正典である旧約聖書を通して示された本来のメシア「油を注がれた者」の概念なのである。



 

ところで、現代神学者たちは、イエスについてのメシア概念を、ニカイアやカルケドンの信条を通して見るのではなく、史的イエスからその概念を見いだそうとしている。そのメシア概念は、存在論的なものではなく、来るべき「神の国(神の支配)」をこの地上にもたらす、機能論的な概念なのである。



 

(3)メシアの使命と神の国



 

アメリカの神学者のラインボルトニーバーは、ユーモアに満ちながらも、辛辣な問題提起をしている。すなわち、彼の友人が次のように語ったというのである。



 

キリスト教の信者達は膏いうであろう。「ユダヤ教徒はとても愚かである。なぜなら、彼らはキリスト教の2000年の歴史を見ていながら、今なお、イエスがキリストであることを信ずることができずにいるからである」。ことろが、これに対して、ユダヤ教徒は次のように言うであろう。「キリスト教徒たちは盲目である。なぜなら、このような罪に満ちた世界に住んでいながら、イエスが十字架で死ぬことによって、彼のメシアとしての使命を果たしたと信じているからである。イエスの目的は、地上に神の国をもたらすことであった。その神の国はどこにあるのか。」



 

イエスは、決して「渡しの十字架が近づいた。悔い改めて、私の贖罪の死の福音を信ぜよ」と宣言することによって、メシアとしての使命を始めたのではなかった。イエスの中心メッセージは、「神の国の到来」であった。このことは、ほとんど全ての現代の新約聖書の学者が認めている周知の事実である。



 

イエスの説いた「神の国」というのは、後世のクリスチャンが考えているような、死後の世界や個人の心の中にのみ到来するものではなく、この地上における神の支配であり、歴史上に実現すべき一つの具体的な時間的摂理であった。



 

地上における神の支配は、それを受け入れる人々の内面から始まる。すなわち、自分の中のエゴが死に、神が自分の主人になる。その結果、まず神(天の父)と人間(神の子供)との創造本然の正しい関係(親子)が回復され、次に創造本然の正しい兄弟関係、最後に人間と自然界(宇宙)との正しい関係が再復されるのである。



 

したがって、神の支配は現存の社会秩序おも変革するようになる。ところで、人間が自分の中のエゴに打ち勝つ為には、まず罪に対する勝利をしなければならない。しかしそれは、人間自身の力だけでは不可能である。ゆえに、罪に打ち勝つ力を持つメシアによってもたらされる神の恩寵が必要となってくるのである。



 

また、神の国は人間の歴史の中に満ちてくる「神の時」に実現すべき、一つの時間的摂理である為、イエスは何ものも、このような神のみ旨以上に優先すべきではないことを説かれたのである。すなわち、財産も父親の埋葬(ルカ9:60)も、近づきつつある結婚(ルカ14:20)も、仕事(マタイ4:18−20)も、その他いかなるものにも優先して、神の国の到来の為に働くように力説されたのである。



 

しかし、イエスはイスラエルの人々からメシアとして受け入れられず、不信され、神の国の到来をもたらすことができずに、十字架にかけられて死んだのである。したがって、ドイツの新薬聖書学者のギュンターボルンカムが言うように、「イエスが旧約聖書の預言の成就として死ぬ為にエルサレムに入城したと主張するのは、復活以後のクリスチャンたちの信仰によるものであって、実際の歴史的イエス像ではない」というのである。歴史の真相は、ドイツのカトリック神学者ハンスキュングが言うように、イエスの十字架の死は、神の意思によるものではなく、イエスの敵が圧倒的に強く、味方が弱すぎたからなのである。



 

イエスが死に、彼の復活以後、イエスの福音についての解釈は次第に変質し、福音に神秘的な解釈が施されていった。来るべき神の国を強調する代わりに、復活のイエスと個々の信者の神秘的な一体化が強調された。そのような変化は、最も新しい福音書であるヨハネ福音書の中に見られる。しかし、イエス自身は決して神秘主義などを説いたのではなく、あくまでも地上における「神の国の到来」を説いたのである。



 

時がたつにつれ、クリスチャンの意識から神の国の到来という意識は薄れていき、遠い未来の出来事となってしまった。そして、その代わりに洗礼や聖餐式などの秘蹟(サクラメント)が救いの中心となっていったのである。



 

統一教会は、その失われていったイエスの本来の福音である神の国の到来のメッセージを、今日再び呼び起こし、高らかに宣言するのである。



 

したがって、統一教会こそ、イエス本来のメッセージを引き継いだ、まさに正統派教会なのである。復活のイエスは、ペテロやパウロにだけに現われたのではなく、文師にも現われ、イエスの中心メッセージである「神の国の到来」の成就を師に託されたのである。イエスの中心メッセージが、イエスからパウロに引き継がれる過程の中で非連続が生じてしまったが、文師によって再びその連続性を取り戻したのである。すなわち、失われたイエスの中心メッセージが復活したのである。そして、この中心メッセージを復活させ、実現する人物こそまさしく「再臨主」であると言えるのである。それゆえに統一教会の信徒達は、神の国の実現のために働くことを、全てに優先させているのである。



 

(4)文鮮明師のメシア性



 

最後に、文鮮明師がどうして「メシア」であり、「救世主」であり、「再臨のキリスト」であり、「人類の真の父母」になるのか、という問題について論じることにする。



 

第一の根拠は、すでに言及したが、文師が16才の時、復活のイエス(霊的イエス)と出会い、イエスより再臨のメシアの使命を受け継いだことにある。そして、これを信じるか否かは各人の信仰にかかっている。その点は、イエスについても同じことが言える。イエスをキリストとして告白するか否かは、彼を受け入れる人々の信仰にかかっており、その人の実存の問題なのである。しかしこのことは、全ての宗教についても言えることである。



 

第二の根拠は、文師が「メシアであり、再臨主である」と宣言したからといって、何も奇異なことではないということである。旧約聖書には、すでに39人の人々がメシアとしての使命を受けており、イエスですら歴史的イエス像を浮き彫りにする学問の観点に立てば、メシアの使命を神との関係において自覚した一人の人間なのである。したがって、文師がメシアであることを宣言したからといって、一部の反対牧師のように何も目くじらを立てて反対する必要のないことであると言えよう。むしろ文師は、全ての人々がメシアにならなければならないと語るのである。



 

かつて宗教改革の時代に、マルチンルターは「万人祭司説」を唱えた。特定の宗教的エリートしか祭司になれなかった中世カトリック時代において、彼の説は奇異なものであったに違いない。しかし今日においては、それを奇異に思う人は誰もいないと言ってもよいだろう。しかし文師は「万人祭司説」の段階にとどまらず、さらに今こそ万人がメシアとなって、神の人類救済の摂理に参与することを訴えているのである。事実、文師は統一教会の信徒達が故郷に帰り、「氏族メシア」となって活躍することを奨励している。



 

文師が、ハーバードリチャードソンに「..........私もメシアになろうとしているし、あなたもメシアにならなくてはならない」と述べたことについてはすでに言及した。しかし、メシアといっても、そこにはいろいろなレベルの存在がある。



 

文師のように、イエスと同様に人類の根源的罪、すなわち原罪より人類を解放し、天地(霊界と地上界)に神の支配、すなわち神の国をもたらすという使命を持った「メシア」と、そのメシアによって原罪を清算され、神の子女として新生し、氏族のメシアとして活躍すべき使命を持った「メシア」や、また、イスラエル民族の解放を中心使命とする王、祭司、預言者としての「メシア」との間には、差異があることは言うまでもない。その意味においては、文師は存在論的にもユニークなミッションを持った方であると言える。



 

しかし、また、人類の一人ひとりが皆神の創造目的を成就しない限り、真の神の国の到来がないことも確かである。したがって、人類の救済、その復帰の過程がいかなるものにせよ、究極的には万民がメシアとなって神のみ旨を果さない限り、真の人類の救済はないのである。それゆえ、文師は万民がメシアとなって神の創造目的を完遂し、創造本然の人間の価値を復帰しなければならないことを説いているのである。



 

第三の根拠は、文師の説かれた教義と実践である。師の解明した「統一原理」は、人類の救済に必要な神学的、哲学的、科学的な教理体系を全て備えており、聖書とキリスト教教理に関する合理的解釈を我々に提供している。



 

さらに、この教義は人性の三大疑問、すなわち人間は何であるのか(本質)、人間は何の為に生きるのか(目的)、どこから来てどこへ行くのか(帰結)といった問題について明快に返答している。また、神と霊界の実在について解き明かし、神と人間、人間と人間、人間と霊界をも含めた宇宙自然界との本来の在り方を解き明かしている。また、人間の本性が善を願いながらも、願わざる悪に駆られていくという「人間の矛盾性」や、原罪の問題を解明し、悪の根源が何であるかを解明している。そして、人類を悪の力から永久に解放し、救済する方法を解き明かしているのである。



 

また、イエスがメシアとして人類救済の為に降臨したのに、なぜいまだにこの世は救われていないのか、そして、メシアの再臨はなぜ必要であり、その人物は一体どのような使命を持って再臨するのか、また再臨はいつ、どこで行われるのか、といった問題について、明確な解答を与えている。したがって、教義の持つ論理の整合性自体が、文師が再臨主であり、人類の真の父母であることを論証していると言える。



 

次に実践面からの根拠であるが、それは文師がイエスより再臨主の使命を託されて以来、「神の国」の実現を目指して成し遂げてきた歩み、業績そのものが再臨主であることを証している。文師の「神の国」実現を目指す「統一運動」は、宗教、思想、言論、文化、学術界、さらに政治、経済分野など、実に多岐にわたって展開されている。



 

文師はこのたび、これまでのすべての活動を結集して、1992年8月19日から30日にかけて、「世界文化体育大典」を韓国のソウルにおいて開催した。当大典において、世界平和実現の為に、宗教者、政治家、科学者、言論人などの世界を指導するあらゆる分野の指導者達が一堂に会した。そしてその中で「国際科学統一会議」「世界平和教授協議会世界大会」「世界言論人会議」「世界平和の為の頂上会議」「世界平和女性連合世界大会」「世界平和宗教連合会議」「原理研究会世界大学生総会」「国際合同結婚式」「体育祝典」など、様々な催し物が行われたのである。この大典は、文師がその全生涯をかけて、いかに真剣に「神の国」実現の為に尽力しているかを的確に物語っている。



 

第四の根拠は、文師の活動に見られる「メシア」としての預言者的、祭司的、王的機能または役割である。ジョンカルバンは、キリストたるお方は、役割において「預言者」であり、「祭司」であり、「王」であると述べているが、文師はまさしくこれらの役割を全て遂行している。



 

文師は神より預かったみ言を述べ伝える人であるがゆえに、「預言者」と言うことができる。文師の語られた多くの言葉はそれを物語っているが、特に1973年にアメリカ国民に向けて、「アメリカに対する神の希望」と題して語りながら全米を一周した行為は、そのことを如実に物語っている。そして今もなお、世界がこれからどうあるべきかという、神より預かったみ言を語り続けているのである。



 

次に「祭司」としての使命であるが、文師の半生は、まさに人類の罪を神の前にとりなすために、十字架を背負いながら歩んできた苦難の路程であり、その路程自体が文師が祭司的使命の遂行者であることをよく物語っている。



 

最後に、「王」としての使命であるが、「神の国」を現実的に築くためには、社会と国家の組織、すなわち国家の社会、政治、経済機構までも変革しなければならないのは当然である。文師は共産主義が、そのイデオロギー面においてばかりでなく、それに基ずく政治、経済機構も間違っていることを早くから指摘し、「国際勝共連合」を創設し、勝共運動を展開してきたのである。そして文師は、旧ソ連のゴルバチョフ大統領と会談し、ソ連の対アジア政策、宗教政策に大きな影響を与えたのである。また、北朝鮮の金日成主席とも会い、国家を導く理念として「主体思想」の代わりに「神主義」を推奨し、北朝鮮の対外政策に大きな影響を与えたのである。このように、文師は「王」なる使命を持つメシアとしても世界政治に対して具体的な政治理念を持っているのである。



 

第五の根拠は、メシアの最も本質的な使命を「真の父母」としての使命と見ていることである。人類を「罪より救済するメシア」は、救済後にはその使命が終わり、不必要となって消えていく概念であると言える。しかし、「真の父母」は、人類始祖が堕落しなくても必要であった観念であり、創造本然の世界において永遠に必要とする存在なのである。すなわち、人類の始祖であるアダム(一男)とエバ(一女)が、堕落せずして完成していたならば、永遠に人類の「真の父母」となったはずであると「統一原理」は説くのである。



 

したがって、メシアの本質的な使命を「真の父母」と定義したことは、神学的には、やがて消えてゆく贖罪的メシア観念よりも、より重要なメシア概念であると言うことができるだろう。そして、メシアの本質的な意味を正しく定義し、人類に教えることができる人物こそ、「真の父母としてのメシア」であるということを、的確に物語っていると言うことができる。



 

第六の根拠は、文師が、人間の罪の起源を人類始祖の「愛と性の誤用」に由来すると見た点である。愛と性における堕落とは、聖書の創世記三章に登場するエバと蛇で象徴されている「天使長」との間における不倫なる性関係と、エバとアダムの間違った愛による性的行為のことである。すなわち、「偽りの愛」によって人類歴史が出発したということであり、それ以来そのような偽りの愛が、それ以後の人間の愛に影響を与え、人間生活を誤った方向へと導く基本的な動機を作り出してきたというのである。これがいわゆる文師の原罪に対する見解なのである。



 

史実に立脚して聖書を批評学的に解釈しようとする現代聖書学者たちによって学問的に導き出された結論は、文師の啓示による方法と奇しくも同様であり、創世記三章の物語を解釈するに際し、そこには性的要素があることを認めている。これは文師の掲示を通しての見解が、いかに正しいものであるかを示す一例である。



 

さらに今日の事象は、文師が説く原罪論の正しいことを証明している。今日人類社会の倫理は、不倫、姦淫、フリーセックスなどを通して崩壊に瀕している。その結果、人間は霊的な喜びに満ちた生活をすることができなくなり、肉体的にもエイズ等により死に直面している。



 

このように、文師が人間の抱える最も本質的な罪の問題を的確にとらえているということは、同師がメシアである資格を備えていることを如実に物語っている。文師は、人類がサタンの「偽りの愛」と「偽りの生命」と「偽りの血統」から出発したがゆえに、メシアである真の父母は神の「真の愛」と「真の生命」と「真の血統」をもって人類に血統転換をもたらさなければならないことを力説している。そして、そのことがまさに文師の祝福「合同結婚式」によって、現実的に展開されているのである。この文師の祝福によって結ばれた人々の夫婦関係の「清さ」とその子供たちの「純潔」が、遠からず愛と性において混迷する世の中に一条の光となって、文師の「メシア性」を示すものとなることだろう。



 

第七の根拠は、今日多くのクリスチャンがそうであるように、歴史的実在性を証明する根拠が極めて希薄であるケリュグマ(宣教)の「イエス」を、実在したメシアとして受け入れることができるというのであれば、現実に今実在する文師をメシアとして受け入れることは、なおさら明確な史的根拠を持つ行為だということである。



 

第八の根拠は、文師とイエスの予型論または類型論(Typology)的な神の摂理における歩みの同時性または類似性である。(もちろん、これはあくまでも類似性にこだわりを持つ人たちにとっては重要であるが、文師に、「再臨主」として独自に開拓すべき側面があることを強調する人たちにとっては、さほど重要ではないかもしれない。)



 

以上


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